Propos sur le bonheur
Daichi Sugawara
はじめに
自分がゼミを持つようになり,学振特別研究員の申請書の添削等を行うようになった。色々と調べると,私が申請をしたころとだいぶ状況も変わり,ネットで検索をすれば採択された人の対策や申請書の書き方のコツなども見れるようになっている。大学では無料のコンテンツとして,申請書や審査に関する動画を視聴できたりもする。中には今私が読んでも勉強になることも多いが,何か大切なところが失われているような気がした。申請する側にとってはおせっかいであったり,抽象的で,根性論のように思えるかもしれないが,今,私が大切に感じている「魂」のようなものを記載しておく。
申請書を提出するまで,あなたは何をしましたか?
学振特別研究員,特にDC1を巡る競争は「せーの!」でスタートするわけではない。あなたが生まれてから申請書を提出する(提出のボタンを押す,まさにその時)までに何をしてきたのかが評価される。例えば,修士の1年生の秋に学振特別研究員に申請をすることを考えたり,あるいはその制度を知ったとき,自分が他の同期(同世代)の院生と何周差ついているのかを考えてみよう。おそらく,(分野にもよるかもしれないが)その領域でトップを走っている学生は,学部(学類)のころから研究者になることを具体的に考え,少なくとも卒業研究は国際誌に投稿する,あるいは学部のころから査読付きの学術誌を持っているようなレベルであろう。そのような同期(同世代)と提出日まで勝負することになる。そのライバルは,決して止まることなく,むしろ,あなたよりも早いペースでその領域を走っている。さて,あなたはどのように,そのライバルとの差を縮めることができるだろうか?
トップでゴールをしなくてもよい
ただし,学振は絶対的な基準によって,一位から採用されるわけではない。評定用の4項目(だったはず)を用いて,審査者の主観によって評定される。心理学研究者であれば,そのように主観的に4項目で測定することが,いかに評価者の個人差を反映するかはよく理解できるだろう。つまり,6人の審査者が4つの項目で評定,あるいは他の申請書と比較できるような内容が申請書で表現されていなくてはいけない。それが,業績はあるけど学振に採用されない,業績はないけど学振に採用された,ということが起きる原因の一つであると思う。そして,絶対的な基準もないために,ある程度の偏差のなかで,「上位の何パーセント」かに入れば,めでたく学振に採択となる。トップでゴールをしても,採択の基準となる最低点でゴールしても同じ,学振特別研究員なのである。その点が,特にいま,トップで走っているわけではないが,これから申請をしようと考えている人にとっては大事であると思う。大事というのは,①これから頑張れば申請書次第で採択されるということであるが,②そのような採択か不採択かの境目にいる集団が一番苦しく,わずかな差で採択不採択が決まるということでもある。
「人生」をかける
学振の合否に自分の人生をかけている人を多く見てきた。ただし,自分から見て,本当に人生をかけている人は案外少ない。どこか,「とりあえずチャンスにかけてみる」,「ダメだったら博士進学をあきらめる」,といった考えが拭い去れていない。もちろん,心のバランスをとるためにはそのような心持ちも必要であるが,当落線上にいるのであれば,あるいは,申請書を出すのであれば,提出日まで自分の人生をかけて行動をしてみてほしい。申請書を何度も印刷をして添削してもらう,(業績レースに乗るのは良くないが)業績を増やせるように努力する,(申請書に書けるようなレベルで)具体的な活動を通して自身の研究能力を磨いていくのである。実は,この過程で,つまり追い込まれた状況であるがゆえに,業績が増えたり,研究能力や,研究者とのコミュニケーションが豊かになっていく(残念なことに,このような連鎖はしばらく続いていく)。逆に言えば,研究者としての一歩を踏み出しているともいえる。
あなたは,何の研究者ですか?
研究計画や研究業績も含めて研究能力を示す一つの指標であると思うが,自分がどれだけ研究能力があり,自分がどのような研究者を目指すかについて説明することが求められるのが学振特別研究員の特殊な部分であると思われる。つまり,研究者としての中身の部分になる。これまでトップで走り続けたものは,華々しい業績があるために,それを中心に書いていけば平均点程度はとれるであろう。試されているのは当落線上にある者である。申請書を提出するその日まで,自分がどれだけ研究能力を磨き,目指す研究者像を具体的にできているのかを自身の研究内容(テーマ)と照らし合わせて洗練させることが求められる。研究計画などは多少教員の手が入っているものだろうし,それが申請者が考えた研究か,指導教員が考えた研究であるかを見抜くのは困難であろう。それゆえに,自分がどのような研究者を目指すのか,目指す研究者になれたときに学術的にどのような発展が見込めるかを徹底的に考える必要がある。
論文と申請書の違い
これまで何個か申請書を書いたり,(学振ではないが)審査をしたこともあるが,論文と申請書には大きな違いがある。それが,基本的には論文は査読者らと何度かやり取りができる(やり直しや説明ができる)が,申請書は「提出したもの」勝負であるという点である。以前は,学振であれば面接までの業績を積み重ねも評価されるが,面接がなくなった以上,提出したものがより絶対的になった(まだ,猶予があるとすれば評定中の審査者と仲良くなったとか,当落線上の時に個人のウェブサイトを確認してくれた,などであろう)。つまり,あなたが,これまでトップを走ろうと,そのトップで走ってきたことを,そして今後もトップを走り続けることが表現されていなければ評定値は低くなるだろうし,あなたがあたかもトップを走り,これからも走り続け,日本の,そして世界のトップを走っている(走れるような)ことが書かれていれば評定値は高くなるだろう。良くも悪くも「提出したもの」勝負となることは,覚えていたほうが良いと思う。
独自性を貫くか,ライバルを蹴落とすか
申請者は評価者と戦うわけではなく,同じ区分で申請している同学年と勝負をしているのである。実際に,どのような人やテーマの者が出てくるかは申請者には分からないが,予想をすることはできる。一番わかりやすいのは過去5年間の自身の領域(区分)の申請者が通ったテーマや業績を片っ端から調べることである。実はこの作業は案外早く終わる。採択者の業績のブレ幅,採択されるテーマはおおよそつかむことができる。あとは,自分の研究領域のトレンドを理解することと,そのうえで自分の研究のオリジナリティを光らせ,時に仮想の敵にマウントをとれるかどうかである。結局のところ,相対評価にならざるおえないのだから,評価者フレンドリーに申請書は書かなくてはいけない。野球で言えば評価者は審判なのだから,審判を苛立たせるのはわざわざ不利な状況作っていることになる。あとは,ライバルとどう戦うかである。一番避けたいのはテーマがかぶることだろう。全く同じテーマだとしたら,研究業績が多い者が勝つことになる。(表面上の)研究のトレンドを追うことは,このような研究テーマの重なりにつながる可能性があるため,申請上は良いことと悪いことがある。ただし,この点を逆手にとれば,ライバルを蹴落とすることができるかもしれない。すなわち,今の当該審査区分でテーマとなっていることの先を行く研究,そのテーマによって忘れ去られている点を検討する研究などがあげられる。個人的には,そのような点を自分だけで考え抜くのは困難であると思う。自身の研究をしながら,他の研究者,他の分野の研究者,世間の人々とどの程度交流しているのかが問われているのだろう。オリジナリティにあふれた研究は評価者の目に留まりやすいだろうが,評価者にとってはなじみのない研究である可能性もあるため,その点は丁寧に説明しなくてはいけない。実現可能性も問われることになるため,具体的な方法を記入したり,実施経験を書く必要が出てくる。
連鎖の始まり,業績レース
トップで走り続けている者も,当落線上のものも辛い作業である。ただ,論文投稿,就職,科研費といった戦いの始まりに過ぎない。自分の人生だけならまだしも,何名もの研究者や事務員の生活が懸かっている研究者もいる。このような勝負はしばらくは避けようがない。だからこそ,一歩を踏み出すことが大切なのである。